あなたの本当に欲しいものはなに?

自分は本当に自分の欲しいものを手に入れているだろうか?
自分の真の望みを叶えるために、1日1日を過ごしているだろうか?
胸に手を当てて考えてみる。
それは、親の望みではないのか。会社の目標ではないのか。友人の価値観ではないのか。コマーシャルの影響ではないのか。世間の、一般的な願望ではないのか。
自分以外の、他人の望みが混同して、自分の欲しいものの邪魔をしているのではないのか。
自分の本当に欲しいものがなにかを知らないと、永遠に欲しいものは手に入らない。
本当に欲しいものがわかっていても、周りに気をつかって手がだせないのだとしたら、やっぱり欲しいものが手に入ることはあり得ない。
世間の、一般的な価値観が、そっくりそのまま自分に当てはまるわけがない。
あれが好き、これが嫌い。
でも、社会は好きなものばかりではなく、嫌いなものもしっかりやるように求めてくる。
小学校や中学校を思いだそう。
みんな一列に並んで、同じ方向を向いて、同じように勉強をしてきた。
先生のいうことを聞くことはいいこと、いい成績をだすことはいいこと、いい高校や、いい大学、いい会社に入ることはいいこと。
世間の、一般的な「欲しいもの」とはなにかを学んだ。
それは「安定」であったり「学歴」であったり「社会的地位」であったりする。
学校や親から教えられた「欲しいもの」がいつしか「自分」の欲しいものに変わっていった。
本当に欲しいものは別にあるのだが、それを口にはださずに、そうそうこれが自分も欲しかったんだと気持ちを合わせることにした。
それから時間がたって、「安定」や「社会的地位」を得ることができた。なに不自由ない生活。
でも、なにかか違う。なにかが足りない。
それは「なにか」
それは、遠い昔にふたをした「自分が本当に欲しいもの」
自分に嘘はつけない。胸の奥底にしまった「情熱」は何年たっても消えることはない。
その情熱をエネルギーにして、自分の本当に欲しいもののために動く。
それが自分の求めていた「憧れの生活」ではないのか。
そうだ、いまこそ、「みんなが欲しいもの」という偽りの願望を捨てて、「自分の真の望み」を叶えるために前に進もう!
無理に気持ちを合わせていた弱気な自分はもういない。
「自分の真の望み」を叶えようという「強い意思」を持った自分がいる。
いまなら、どんな荒波がきても乗り越えていけるだろう。
その先にある「自分の欲しいもの」を手に入れるまで、どんな強敵が現れようともそれに立ち向かう「覚悟」を持った自分がいる。
倒れても倒れてもあきらめない。
「真の願望」に目覚めた人には、そんな特別なパワーが宿る。
本当に欲しいものはだれにもいわない
自分の本当に欲しいものは、ちょっと幼稚で夢物語のような話が多い。
もしそれを周りにうっかり話そうものなら、バカにされてもみくちゃにされてズタボロにされて、ゴミ箱に捨てられるだろう。
いい大人が、「自分はこういうのがしたい」と本音をだそうものなら、社会のしかるべき鉄槌が下ろされ、無残に叩き潰されるだろう。
そして、夢を見るのはあきらめて、現実的な望み、つまり、一般的な、平均的な望みを叶えるために、つつましく毎日を送るようになる。
小さい頃は自分の望みをなんの抵抗もなく話しまくったもんだ。「これ買って」「あれがしたい」など。
しかし、親が「あれはダメ」「これもダメ」というと少しずつ自分の望みをいうことはなくなり、「我慢」や「忍耐」という言葉を知る。
いま、小さかったあの頃を思いだそう。まだ我慢や忍耐を知る前の、自分の望みをストレートに表現できたあの頃を思いだそう。
でも、自分の望みを他人に話す必要はない。
自分の大切な「望み」を他人の前にだして、攻撃され傷をつけられたら大変だ!
自分の本当に欲しいものは弱くて、壊れやすい。
だから、しっかり自分の手で守ってやらなければならない。
そして、毎日毎日、それを真心を込めて磨き「大きく、強く」させていくのだ。
いずれ、成長して、人様に見せても恥ずかしくないほどになれば、自分の願いが叶う日は近い。
だからそれまでは、本当に欲しいものはだれにもいわない。