#11 そよぐ窓、浮き沈みの勇気
そよぐ窓、浮き沈みの勇気
床のタイルは一面一面てかてかと光り、湯船に浸かるピエロに午後の感情を注いでいた。
そよぐ窓、緑のご機嫌、こんにちは。騒ぐ風、耳の隣へようこそ、お邪魔します。遠くの小船、行き着く先はオルゴールの世界、ちゃぷちゃぷと進行していく。
時代遅れのラジオから明後日のお兄さんの声が聞こえてくる。
「耳からこんにちは、きょうはどれとどれにしようか迷ったけど、やっぱりあなたにするよ。そう、いま、この声を聞いているそこのあなた。ぼくがジャングルの墓地へ行ったときの記念、だれもがハッピーになれるチャンスはあるけど、それはときどきの雲行き次第で、安定しないものだよねってジャングルの象がいっていたんだ、礼儀よくタキシードなんか着ちゃってさ、笑えるよね」
ピエロは赤い鼻でふんと笑った。すぐそばにいた女がすかさずピエロを褒めた。すごいとかやばいとか一通り並べたあとで、ピエロはその女に銀貨を2枚与えた。女はおおむね満足して、くるりと背中を向け去っていった。
いまはだれの声も聞きたくないな。ピエロはラジオを軽く上下に振って、湯船の中に落とした。明後日のお兄さんが元気に溺れていく。
「別に忘れてもいいんだけど、昨日はいろいろあったよね。まあそれは結婚式とか告別式とか潜在意識とかのジャンルではなくて、もっとこうみんなが整理整頓する、あるいはしたいなって思う瞬間でもあったと思う。でも日記に書くほどのことではないんだ。ぼくの4歳の娘がね、飼っていたクマのぬいぐるみが死んじゃったなんて泣いていたけど、もっと大きくてかわいいクマを買えばいいじゃんって話じゃあないよね、じゃあなんなの? って感じだけど、ふふ、あはは、また明後日……」
見っけなプリティ
町中にあるプリティなものを見つけて、ひたすらお手元のプリティボタンを押していく。これが遊びなのか宿命なのかは知らないけど、町の娘たちは夢中になって、この行事に取り組んでいた。
町でただひとつのコーヒー屋さんに見っけなプリティはいた。見っけなプリティは、この町にいる娘たちから、一番プリティボタンを押された娘である。ややこしいけど、事実である。事実は多くの場合、ややこしいものだ。見っけなプリティは大人ぶってまっ白なコーヒーをゆっくり飲んだ。
道行く人たちは店の窓越しにプリティを見つけては、きゃあきゃあいってプリティボタンを押していく。見っけなプリティにとっては日常茶飯事で、いちいち感情の数値を上げたり下げたりする必要はなかった。最初は戸惑っていたけど、慣れた。慣れなければとっくの昔にこの町とさよならをしている。
町に未練はない。と公式に発表していたが、本当だろうか。この町には、優しいお兄さんがいて、元気な妹がいる、ときどきは母も父もじじもばばもいるし、プリティボタンだってある。便利な生活を批判するなら、まず批判しようとする自分の頭を批判しなくちゃ。
見っけなプリティは雑誌のページをめくり、ただ時間が過ぎていくのを待った。雑誌の中にも、店のメニューの中にも、机の下にも、椅子の手すりにも、マスターの顔にも、プリティボタンはある。ピンク色のいかにもといったデザインで、ボタンを押してくれる人を愛おしく見つめてくる、あのボタン。押してほしい、押して、押して、と繰り返し念じてくるボタンを見っけなプリティは不気味に思った。そのボタンが、自分の評判をゼロから100まで作ったんだと考えれば、余計に震えた。
パーティーの疲れは○○の元!
「湯加減を見誤った経験は私にもあります」
ケットは水を含ませたタオルをよく絞って、ソファに横になった魔女のマリアさんのおでこにちょんと乗せた。
「ありがとう、優しいのね、きっとお母様の教育がよかったのね」
「いえ、母は、男たちから槍を向けられ、女たちから鼻ピアスを強要されるような人でした」
「まあ」マリアさんは少し驚いた表情をした。
「母は私のことをタイムセールのチラシ程度にしか思っていなくて、私も母のことをアヒルの窓口で働けばいいのにといつも思っていました」
ケットの言葉に、マリアさんは口を挟むことなく静かに頷いた。
「母は高い地位にいる人でした、人に命令しても決して命令されることはない。生まれ持った特権です。仲直りは『ふざけるな』の一言でいいし、お礼をいうときも背中を向けて、参考文書を投げるだけで許されました。そうです、母は本当に許される人でした。私はそんな母を許しませんでしたけど。ごめんなさい、変な話をしてしまって」
「いいのよ」マリアさんは短く、そう答えたあとで、長く、こう説明した。
「許すか許さないかなんて、その畑にカカシがいるかどうかくらいの違いだと思うわ。私は別れた夫によくそういわれた。偽物の恐怖でカラスを追い払うカカシにはもちろん意志はない。けど、だれかが強い意志を持ってカカシを見れば、それは意志の宿ったカカシになる。藁人形でどんなに顔がみっともなくても意志は宿る。そのことを見極められないのはカラスよりも愚かよ。だから、あなたはなにも心配しなくていいわ」
「ありがとうマリアさん」
「いいのよ」マリアさんは優しくケットの手を握った。
裸になればお金はいらない。面接に遅れるようなら、遅れそうだとはっきりいえばいい、だれかのどこかの指紋なんて、蛇の抜け殻さえ気にしない。雑木林を気にするのは勝手だが、もやしの大軍を見過ごすのはどうだろう。胸に手を当てて、どこまでも深く考えてみるといい。