芸術は道に落ちている石ころだ
芸術はだれにでもできる
芸術はだれにでもできるもので、どこにでもあるものからはじまる。つまり芸術は、道に落ちている石ころだ。
あなたは石を手に取って、なんとなく眺めているうちに石になにかを表現したいと思うようになる。表現といっても、ペンで文字を書いてみたり、ちょっとした絵を描くくらい。特に意味はない、単なる暇つぶし。
でもその暇つぶしがそれなりに面白い形になってくると、石をだれかに見せたいと思うようになる。
目の前を歩いている人たちに向かって石を見せてみる。大抵の人たちは見向きもしない。だけどある日、ひとりの少年が立ち止まって石を眺めてくれた。
あなたはうれしくなり、その少年をもっと楽しませるために石にさらなる物語を描くことにした。荒い、ごつごつした物語をもっと削り、シンプルなものにした。だが、表現の幅は広くなり、使う色の数は増え、言葉の奥行きは深く、深くなっていった。
少年の次に少女、青年、お姉さん、おじさん、おばあさん、いろんな人があなたの石を見に来るようになった。道は人でいっぱいになり、大混乱。
黒いスーツを着た男が声をかけてきて、あなたの石をさらに多くの人に見せるべきだといった。
あなたの石は町で一番大きい建物の中に飾られることになった。熱狂的なファンが生まれ、評論家のコメントを気にするようになり、電話のベルが鳴りやまない日はなかった。
自分にはぶかすぎる家に住むようになったあなたは、新調した服を身に着け、葉巻でも吸いながら、気持ちよく次回作に頭を悩ませるのだった。
だれのための芸術?
自分のための芸術。自分のために作る。それが喜びであり、目標だという人がいる。だれかに文句をいわれる筋合いはないし、気にもならない。芸術は自分の中だけで芽生え、花開き、そして散る。
自分と相手だけの芸術もある。身近な人になにかサプライズができれば大いに結構。楽しい時間を共有できる仲間と、どこまでも没入したい。そのための、手段としての芸術。
ビジネスのための芸術。いつしか、お金を稼ぐことが絶対の条件になった芸術。失敗すると、関わっている何人もの人を不幸にしてしまう、綱渡りな芸術。いつも銃口を突きつけられているようなハラハラドキドキの芸術。
芸術をあきらめる人
芸術にあこがれて、自分なりにチャレンジして、時間がたつとあきらめる人もいる。はっと気づく。自分の目指していることは、あこがれた、あの人の芸術であって、それは、自分の芸術へのあこがれではなかった。
成功や失敗という言葉で後片付けをする。本当は、どちらでもない、ただいつの間にか、ふっと消えていただけ。でも、区切りをつけないと、いつまでもふわふわして気持ちが悪い。だから、成功か、失敗をする。