小説を書くということ
こんにちは、OOG!
きょうは「小説を書く」ということについて考えたいと思う。
おそらく、ぼくもOOGも小説を書くということについて、一度や二度は考えたことがあるだろう。そして実際に「小説」なるものを書いた経験もあるはずだ。
最初にいっておくと、ぼくは「小説」という言葉のイメージはあまり好まない。自分で「ぼくは小説を書いています」というときの小説のイメージはちょっとあれなんだ。
「ぼくは小説を書いている」というと、なんか気恥ずかしいというか、大げさというか、とにかくいいにくい。
だから「ぼくは物語を作っています」とか「作品」とか「自分の世界を文章で表現しています」とかいうほうが心地いい。でもそれだと抽象的な表現だから、聞いている人にはいったいなにを作っているのか理解してもらえない。
小説を書くということを他人に理解してもらうのは難しい。
・どんな小説なのか、どうして小説を書こうと思ったのか、いったいなにがしたいのか。
これらの質問にずばっと答えられる人はすごい。ぼくならいい加減なことをいって逃げるに違いない。
そもそも、どうして小説を書くのか、自分でもよくわからないのだから。
でも、こういう質問なら熱い思いを持って答えられる。
・どんな小説が好きか?
こういう世界観が好きで、キャラが好きで、シーンが好きで、など話せることはいっぱいある。
小説が好きということと小説を書くということには、どんな関係があるのだろう。
読者の成れの果てが作者、という話を聞いたことがある。
作者に変身する前はみんな読者なのだ。
みんな好きな小説を読んで、知らず知らずのうちに、文章の書き方やセリフ、キャラの表現、ストーリーの展開の仕方なんかを吸収しているのだろう。
そういえば、ぼくのはじめて書いた小説は、ぼくの好きな小説に似ていた。言葉の使い方や長さや、テンポも。
OOGはどう? はじめて書いた小説は、やっぱり自分の好きな小説に似ている?
小説を書くにしてもなにをするにしても、いままで見たことや体験したこと、またそれらを組みあわせることでしか「なにかを作る」という行為はできないのかもしれない。
ぼくたちはいままで小説を読んできたから小説を書くことができる。
小説を書くということは、小説を読むということと表裏一体なんだ。インプットとアウトプット、小説で吸収したものを小説で表現している。ただそれだけのこと。
小説を書くということは、実はシンプル。吸ったものを吐いているだけ。
続けるべきか? 終わらせるべきか?
小説を書くには意外と体力が必要だ。
ぼくもはじめは、400字詰め原稿用紙10枚くらいが、ちょうどいい長さだった。100枚とか300枚書く人なんて、本当、雲の上というか、遠い存在だ。
書いていると、早く終わらせたくなる。これはあるあるではないだろうか。
長編の小説は長距離マラソンのようなものだ。1日じゃあとても完成することはできない。
ぼくは断然、短距離派だ。よーい、スタートする前に、もうゴールのテープが見えていないとやる気がでない。
長編小説は、何日も何週間も何か月も、小説を書く、ということに向きあわなくてはならない。
せっかちのぼくにとっては、かなり息苦しい生活だ。
だからこそ、完成したときに、大きな達成感もついてくるのだろう。
そうだ、小説は完成してこそ、大きな意味がある。
「まずは終わらせること」
これが大事なことであることはよくわかる。
でも、書いている小説を、このまま書き続けるべきかどうか悩むことがある。
書いているうちにわけがわからなくなって、このまま最後まで書いてもむちゃくちゃな物語になるだろう。きっとひどい仕上がりになる。それならいっそのこと、気持ちを切り替えて、はじめから書き直したほうがいい気がする。
考えた挙句、ぼくは最後まで書き終えることにした。結局、どっちがよかったかはわからない、どっちでもよかったのかも。
だが、書き終えてみて、終わったあとの景色を見ることができたのは事実だ。
やめるかやめないか、迷って、やめないと決めて、最後まで走り切った、という体験ができた。
小説を終わらせる、完成させる、とはどういうことかを知ることができた。
少しの達成感と、次はもっと素晴らしい小説を完成させようという思い、かっこ悪い小説を書いてしまった悔しさ。
いろいろあるが、どれも経験になり、これからへの「糧」になった。
最後に
OOGは最近、小説読んでる? ぼくはまったく読んでいない。
一番最近読んだのは、たしか4か月前だ。
筒井康隆の「ロートレック荘事件」
推理小説の持つ、あの一気読みの興奮を味わいたかったから読んだ。期待通り、いや、期待以上の面白さだった。
やっぱり小説は面白い。
この夏もなんか、読んでみようかな。
いい小説があったら、ぜひ紹介してくれよ!
それじゃあ、またっ!