#10 鉄と汗と麦
マリアさん
魔女のマリアさんは花摘みの帰り、妙な胸騒ぎを覚えた。
彼女の毎日といえば、先輩の魔女のためにコーンスープを作ったり、後輩の魔女や魔女志望の受講生のために「明日からきらりと生える草花教室」を開いたりと実にバラエティ豊かだった。
私が胸騒ぎを覚えるなんて、不吉なことね。きっと魔女の家でなにかあったに違いないわ。近所のごろつきたちが世界最強最悪団を結成していたらどうしましょう。魔女の私たちにできることは、悪女のお面をひっくり返すことくらい。なんでもない日々にさようなら、現実離れのパティシエなんて、虫へのお行儀を教えてくれるくらい。
魔女のマリアさんはスカートの裾を持って、小走りに小道を進んだ。
農作業をしていたおばさんやお兄さんは、奇妙な魔女の小走りを笑いながら眺め、ある者はスケッチをして、ある者は写真を撮り、ある者は去りゆく魔女への熱い思いを手紙にした。
手紙の内容に納得がいかない執筆者の青年は、何度も何度も手紙を破り、部屋中を走り回った。捕まえた小鳥たちをすべて檻からだし、今夜の夕飯の具合を確認しても、気持ちの整理はつかなかった。これは危ないと、破った手紙を集めてちぎり絵を作ることにした。題名は「青年と魔女」シンプルであればあるほどいいと青年は考えていた。ただそれだけの意味だったから、この題名に隠されていた恐怖を見抜くことはできなかった。
魔女へのおくりものはなにがいい? 何日も雇った経済学者に答えはだせない。じゃあだれが? それはね、近所の猫に聞いてみるといい。
鉄と汗と麦
麦色のビールを口に運んで、アッチコッチ・ソットミルは客と客の話し声に耳を傾けていた。
「先発隊はもう出発したらしい、夕暮れには戻るだろうか」
「ジャンク・ビューはまだ借金を返さないらしい」
「一点張りの花嫁はどこにでもいるが、あんたの嫁は相当なもんだ」
調査をして4日。不思議とケミカルのことについて、情報は塩樽の底辺だった。ソットミルはこの都で調査を続けても意味がないのではないかと思いはじめていた。
不思議とケミカルは国王のスパイかなんかで、とっくに都を離れ、別の土地で悪戦苦闘しているのかも。予想は次のビールへの足掛かりとなり、ソットミルの気高き魂をじょじょに塗りつぶしていった。
そんなソットミルの背後から、生温かい鉄を押し当てたのは、フードを被った10歳から50歳の声の高い男だった。
「探偵さん、探偵さん、よろしくいいたいのは山々だけどさ、用心には用心を重ねないと、道には危険な親玉が闊歩しているし、看板にはとりあえずご注意! って書くような時代だろう? 狙う者が狙われないとは街角の占い師もいっていないんだ」
ソットミルは汗を口に入れながら、男にいい返した。
「10歳から50歳の男よ、あんたが年中宝くじを買う男じゃないことはわかった、いや、それはもう、私がトイレにガムを捨てたときからわかっていた」
「探偵さん、あんたは横綱でも小結でもないんだ、いっている意味わかるよな? これ以上、不思議とケミカルの土俵に足を入れれば、耳から塩が吹きだすくらいのプレゼントを与えちゃうぜ」
ソットミルはさっと、10歳から50歳の男に割引券を持たせた。男はなにもいわず、背中から鉄を離し、立ち去っていった。
「大丈夫かい?」酒場のおやじさんが心配して声をかけてくる。
「問題ない、これは本当に愉快なことになってきた」
ソットミルは酒場の客のだれよりも大きな声で笑い、麦色のビールを喉に流しこんだ。
緑ヶ丘のパーティーへようこそ
「ケット、もっともっと、効いてるぞ」
「はい!」
ケットはマカダミアンの期待に応えて必死に、信号無視をした小娘の真似をした。
人身事故を経験した主婦になった魔女は、その見事な芸に100%の力で怒り、また悲しんだ。
「やめろ、それ以上は、よしてくれ、私は好きでキャンペーンガールをしていたわけではない」
「嘘をつかないで」ケットはいつにも増して気合を入れて、信号無視を繰り返した。
「なにをしているのっ」
そういってマカダミアンに花瓶を投げつけたのは花摘みから帰った魔女のマリアさんだった。
「私が留守のときに、ああ、なんてこと、不審者の男と信号無視の小娘に緑ヶ丘のパーティーを企画されていたなんて」
「落ち着いてください、私たちはバカみたいにキャットフードを食べていただけなんです、ちょっとした意見の食い違いがあって、あちらの魔女さんが凶暴になって」
「お黙りになって」マカダミアンのいいわけをマリアさんは強く止めた。
「これが魔女への仕打ちなのね、時代は変わっても、やっていることは同じ、いつまでもいつまでも私たち魔女を苔にしてつら下げて、撮影会をして、もうあなたたちの存在にはうんざりよ、それ」
魔女のマリアさんはマカダミアンたちに両手をかざして、呪文を唱えた。
「青年と魔女、青年と魔女、青年と魔女?」しかし口からでてくるのは意味不明な単語の連続で、魔力の効果がちっとも感じられない都会のネイルサロンのような呪文だった。
「どうしたこと」魔女のマリアさんは虚しく両手を降ろし、かわいい猫がプリントされたクッションに顔を埋めた。
魔女の魔法はこれにてお開き。古代の力をみんなは疑うけど、それはマナーの水割りみたいなもので、これといった意味はない。旦那に愛想が尽きた新鋭の魔女は、寝床に大好物のアイスを持ってきて、薄笑いを浮かべながら息子の名前を叫ぶ。それはそれは、豪快に、叫ぶ。